国語と英語 - 子どもの発話と教師の発話と
国語の授業から学ぶ
昨日は,併設されている幼稚園・小学校の国語科の先生方と,勤務校の国語科の先生方とともに,「言語系」としての連携一貫会議がありました。
大学の先生も,国語や英語の先生を交えて,年に4回ディスカッションを行っています。
数年単位でテーマを決め,お互いの授業を参観し合ったり,共通のテーマで語り合い学び合ったりしています。
言語感覚を豊かに,ということで,今年は,教師と児童・生徒のやりとりの中で,特に,教師のfeedbackに着目しています。
前回,10月の回では,英語科の授業の中から,大学の先生が教師と生徒の英語によるインタラクション部分を5分程度抽出して編集し,話の内容をテロップで写しだせるようにしたものを視聴しました。
また,教師のfeedbackがどのようなものかを分類・整理(cullen, 2002・Taylor&Fu, 2006など)した表をもとにディスカッションしました。
今月は,小学校6年生の国語の時間,「俳句」の鑑賞,中学校2年生の国語の時間,「編集会議を開こう」というテーマで,クラスで話し合い,ある本の表紙としてふさわしいものはどれかを,複数の選択肢から選んでいく,という2時間のダイジェストを視聴しました。
小6の授業では,俵万智さんの句に読まれている,川の流れをオルゴールのようだと描写している部分に焦点を当てて,なぜオルゴールなのか,他の楽器ではない理由は何だろう,という問いについて,クラスの子どもたちがそれそれの思いを発表し合い,同意したり,反対したりしながら話し合う授業でした。
オルゴールのような・・・という部分について,どんどんと,小学校6年生が,自分の母語である日本語を使って,本当に豊かにイメージを語っていく様子が見られました。
中2の授業は逆に,どの表紙がよいかを絞り込む話し合いでしたが,賛否や理由を明らかにしたり,反対の場合には,アサーティヴな発言に心がけたりしながら話すなど,子どもの発達段階が見えるものでした。
母語を使うと,こんなに豊かに,そして巧みに,自分の考えや気持ちを外言化できるのか・・・
と,改めて驚かされました。
メインである教師のfeedbackについて,ですが,英語の授業とは対照的だな,という発見がありました。
英語の授業に比べ,子どもたちが母語を操れる(程度の差こそあれ)ために,先生の発話は少なく洗練されていました。
子どもたちの発話を整理し,つなぐ,というファシリテータ的な役割を担っていることが分かります。
小6の授業では特に,児童が話し合いの約束事をしっかりと理解しているので,先生は子どもの発言を繰り返したり,まとめることもしませんでした。
そのため,子どもたちは相手の発話をよく聞き,自分でその発話を受けた上で,自分の発話をつなぐこともできていました。
これだけ日本語でできてしまう子どもたちなので,
英語を使うと,自分が考えていることが表現できないのだろう・・・というもどかしさにどれほど苛まれるかが,改めて分かったような気がしました。
日本語で考えていることの内容を,簡単な英語にシフトダウンして,それを英語化していく・・・という指導は間違ってはいませんが,子どもたちがそれを受け入れ,納得していなければ,前向きな姿勢を持たせるのは難しいのだなあ・・・と思います。
小学校の先生の話で印象に残ったのは,子どもたちの発話を,できるだけ短く,整理されたものとするように日ごろから指導している,ということでした。
放っておくと,どれだけでも,未整理の話をしてしまうそうです。
英語の場合は反対で,どんどん話す,書く,とさせていて,対照的です。
英語では,教師がファシリテータとしても動きますが,個々の生徒と向き合い,対話者となって発話を受け止め,発話の内容から表現を補ったり,修正したりすることもあります。
同じことばの教師として,共通点や相違点があることも,改めて勉強になりました。
生徒の思いに寄り添う・・・
まだまだ,まだまだ・・・です。