子どもを見ているか(思っているか)

一昨日は勤務校の公開研究発表会に向けた事前研究会が,

 

そして,昨日は,隣接する小学校の公開研究発表会本番が,

 

相次いで行われている1週間です。

 

今年は研究主任として全体を,ということで,授業者にはなっていません。

 

その分,授業をする先生のサポートを,と思って過ごしつつ,授業の様子を見ていました。

 

公開する授業を構想する,それも,研究のテーマに沿って。

 

というのは,なかなかに苦しいもので,ともすると,普段の授業とは違ったものになってしまったり,授業構想が,子どもの実態からは離れ,進行も,彼らがどう学ぶか,というよりも,練りに練った計画通りに授業が進むかどうか,に気持ちが向かってしまうこともあります。

 

昨年,授業者を務めて,その思い嫌と言うほど味わったのです・・・

 

事前研究会では,ずばり,子どもをしっかりと見る,ということを指導をしてくださる先生方から指摘をされたわけで・・・

 

だからこそ,当日,子どもたちと,日本語でやりとりをしているようだった・・・

 

と言われた時は,本当に嬉しかったのです。

 

 

今年の同僚の授業は,それまで課題になっていた,子どもの学びのペース,具体的には,子どもに向かって発問した後,彼らが自分の答えを準備するための「間」づくりや,彼らが互いの発話に反応するための「ゆとり」を意識したものになっていました。

 

よかった・・・

 

ナチュラルスピードも大事ですが,私たち教師の発話の間の「間」がない,という間断のないスピードとは違うと思います。

 

実際の対話の中には,そうした遊びがあると思うのです。

 

 

同僚の意識の高さと,緊張感に飲まれず,子どもとのインタラクションを・・・と取り組んでいる姿勢に感心をしました。

 

 

昨日の小学校での授業は,小学校の先生の子ども目線の作り方,子どもをまるまる受け止める姿勢のすごさに,またまた感心させられるものでした。

 

授業を見ると,45分間の流れは練りに練られ,教材・教具もしっかりと準備されたものだ,ということは,すぐに分かりました。

 

でも,教卓の上に指導展開のメモなどはありません。

 

先生が子どもたちに向かってしっかりと英語で語りかけ(たとえ英語がたどたどしくなったとしても=小学校です!),子どもの反応をつぶさに見つめ,見取っています。

 

一つ一つのつぶやきを拾い,そこに絡んでいく,そのつぶやきが次の展開につながっていく・・・という姿です。

 

 

やっぱりこれだよなあ・・・

 

 

そう感じました。

 

 

今月のカレンダーを大きなテレビに映し,1日1日ごとに,その日が何の日かを考え,子どもたちの考えを引き出していくのですが,日に日に違っていることや,カレンダーを出した答えで埋めていきたい,という思いでいっぱいの子どもたちは,ずっと飽きることなく,英語を聞き,反応をしていました。

 

いろいろな考えを受け入れつつ,子どもたちに寄り添っている・・・

 

 

 

自分も,こうした授業をしたい!

 

 

そんな思いにさせられる時間でした。

 

 

 

子どもをちゃんと見ているか・・・

 

当たり前のことを大事にしたいです。