授業ってどんな場? 再考

昨日,地区の教育研究会に参加をしてきました。

 

地区内のライブ授業を参観するのは1年ぶりだったので,他の学校で実際にどんな授業が展開されているのか,を知るためのとてもいい機会になる,ということで楽しみにしていました。

 

同時に,自分たちの学校の研究や実践がどんなものか,を他と比較することで客観視できる,とも思っていました。

 

公開された2授業のうち,自分は今自分が担当している3年生のじゅぎょうを選んで参観しました。

 

子どもたちと先生の関係が温かで,笑顔がたくさん見られる柔らかな授業でした。

 

子どもたちは先生の話をよく聞き,頷く様子や,友人の発表をゆったりと待って受容する姿も見られました。

 

土台は,とってもよいなあ,と感じました。

 

また,子どもたちが最も耳を傾けているのは・・・と注目すると,

 

先生が話す,本物の情報(真正:authenticなもの)を聞いているときでした。

 

先生の好きな本の話,その本が好きな理由は,自分の息子に読み聞かせているからなんだ,喜ぶ息子の姿を見るのは嬉しいからなんだよ,と話しているとき,先生も本当に嬉しそうに話すし,聞いている生徒も楽しそうになる・・・

 

喜びが伝染し,話題が共有されるのですね。

 

一方,子どもたちのトーンが下がっていたのは,機械的な練習の場面でした。

 

ペアで対話をさせることを授業の主活動として位置付けているのですが・・・

 

先生が本当にあったかで,やさしくて,子ども想いだからこそ起こってしまう現象があるなあと思うのです。

 

「きちんと正しいことを言わせてあげたい」

 

「失敗をさせたくない」

 

「最後まで話を継続させたい」

 

そう思うからこそ,失敗をさせない,自由度があまりない,というような状況で話をさせてしまうことになってしまうのかな・・・と感じました。

 

分かりますね・・・

 

でも・・・

 

 

自由度が低いと,自分の本当に話したい,伝えたいことが表現できない,ということにはならないでしょうか。

 

使ってほしい表現のリストを与えてしまうと,綴りと音だけの語句が独り歩きして,本当に自分が思いを込めて自分で選んだ語(そこに自分の願いや思い,気持ちが込められているもの)を発する,ということを阻害してしまうのではないでしょうか。

 

もちろん,定着をさせるために練習をすることは大事です。そのことは否定しません。

 

 

言葉って,間違いながら学ぶものですよね。

 

言葉って,本当に伝えたいこと,そして伝えたい相手がいるから,自分の考えや気持ちを伝えようと言葉を使うんですよね。

 

失敗をするから,じゃあ,本当に言いたかったこと,どんなふうに言えばよかったんだろう・・・と考えることが学びになるのではないか,そう思います。

 

 

授業ってどんな場なんだろう・・・

 

みんなで再考してみませんか?