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長野・松本のKさんより 「大修館 英語教育4月号 新連載を読んで」

尊敬している仲間,松本のKさんから,文教大学の阿野先生が私の授業についてフォーカスしてくれた新連載を読んだ感想が届きました。

 

相変わらず鋭く,深い洞察がなされたコメントで,感心させられました。

 

Kさんの了解をいただいて,拙ブログを読んでくださっているみなさんともシェアしたいと思います。

 

Kさん,ありがとう!

 

自分の授業を客観視できて,勉強になります!!

 

 

 

 

T先生へ

 

英語教育の記事、拝見させていただきました。

阿野先生の授業の切り取り方(ここにフォーカス)がうまいなぁと思いました。

 

指導略案の3「新出言語材料の導入(look+形容詞)
-生徒にとって身近な話題を活用する 
-生徒との生きたインタラクションを通して新出言語材料を導入する
<クラスメートは今日どのように見えるか>

 

ここにフォーカスをおき、授業の進行(T先生と生徒とのインタラクション)を左ページで扱っていらっしゃいます。

阿野先生のコメントで、T先生の授業を形容する言葉として、私がうまいなぁと特に思ったのは「朝の学活」という言葉でした。

多くの先生が、新出言語の導入で、芸能人や漫画のキャラクターなどを提示し、その表情からlook+形容詞を使ってOral Introductionをしてしまうと思います(私も含めて・・・)。

でも、準備がかかるわりに、教室にさめた雰囲気が漂うときがあります。

これよりも、T先生の授業のように、生徒を主体にして、それをネタにした方がいいですよね。

英語でのインタラクションでも、それを授業で理解をしよう、少しユーモアをもって友を理解しよう・・・という雰囲気がでてくるのだと、思うのです。

私も拙いインタラクションでありますが、生徒を引き合いにだしながらインタラクションをし、それとともに新出言語材料の提示の方が生徒の目が違うと特に昨年度思いました(とてもT先生には及びませんが・・・)。

 

視覚的に教材提示、またはICT教育という言葉のもとに、生徒から離れた題材を提示する授業の導入のパターンがありますが、そんなに肩ひじをはらなくても、まさに「生徒」を主体にして、「生徒」を経由して、授業づくりができると思いました。
恥ずかしい話ですが、以下は、私の失敗談です。

 

私がよく「やってしまった」と反省するのは、テレビやプロジェクターで何かを視覚的に提示しながら、新出言語事項の導入をはかったときです。

コンピューターやDVDなどを使って、映像や写真を提示して(パワーポイントなども含む)授業をしているときに、何か、生徒と「溝」ができている気がするのです。

教師としては、準備をしてきているし、生徒のためと思ってついつい説明にも力が入ってしまうものです。

でも、生徒はそんなに食いつきがよいとは思えませんでした(一部の受けている生徒にはよいかもしれませんが・・・)。

 

また、一昨年、とある先生がデジタル教科書を使った授業を参観したときにも同じことを感じました。

デジタル教科書の操作のために、先生がPCを常に操作している感じなのです。

何か、生徒をほったらかしにしている感じがするのです。

また、その先生は、机間指導をしませんでした。

私も含めて、メソッドやテクニックに走りがちなとき、こういった生徒から離れた授業をしてしまうと思います。

私が、前任校にいたときの副校長先生にK先生という方がいらっしゃいました。

K先生が、よく、電車の出発や到着になぞらえて、「生徒発、生徒着」の授業を(または、研究を)とおっしゃっていました。

T先生の授業は、そんな授業になっていると紙面から想像させていただきました。

生徒のフィードバック(学期末のアンケート)を取り入れているところが素晴らしいですね。

 

4の「インタラクションで導入した文の意味・用法の確認」
-ペアで意味を確認し、クラス全体で共有
-新出言語材料を含んだ分の発音練習

 

ここで、「理解」の部分の「漆塗り」(ぼや~んと分かったような気がしている部分を明示化して「理解」を漆器のように塗り重ねる)ことをきちんとされています。

T先生の学校の生徒だと、ここをやらずにいってしまいそうですが、でも生徒のアンケートからここもおさえることで、「ぼんやり」と分かった感じを「あ、そういうことね」とか「なるほど」に引き上げている点が素晴らしいです。

そして、極め付きは7の「ペアでの会話を引き出すライティング活動」でしょう。

ここで、対談の部分に載っている「まずは量を、そして次第に質を」という部分に転化していくのでしょう。

指導略案にある3-4-5-6-7の活動に、つながりがある点も大切な点ですね。

 

私もそうですが、○○先生の実践をという感じでやっているときは、この「つながり」がなく、授業に連続性がないと思うのです。

 

T先生と阿野先生との対談において、阿野先生が、私が上記にだらだらと書いてしまった部分を以下のように簡潔に表現されています。

 

「生徒が、教室で行われるインタラクションの中で文法の使い方の理解を深め、自分たちに関係した身近な素材を扱った例文を使って、最後に明示的に知識を確認する効果は大きいと思います」

 

T先生からDVDを頻繁に送っていただいており、授業の様子が頭に浮かぶから、限られた紙面ではありますが、多くを学ばせていただきました。

ありがたいことです。

 

今後ともよろしくお願いします。

 

 

【私の返信】

 

 Kさんが言っている通りです。私も特に若い時代,かなり凝ったものを準備していました。ただ,準備をすればするほど,教師の気持ちが子どもではなく,時間をかけて作ったものをどう使うか,にばかり向かってしまう傾向がありました。さらに,コストパフォーマンスが悪く,毎回準備できないこともありました。結果,授業の準備の質に凸凹が生まれてしまい,あるときはすごく凝ったもの,またあるときはちょっと手が抜けて・・・ということになりますね・・・

 

 結構前になりますが,福井大の大下邦幸先生を訪ね,研究室でお話をさせてもらったことがあります。先生の東京書籍からの著書を読んでいて,自分の実践の授業ビデオを先に送り,見ていただいた後でコメントをもらったのでした。

 

 そのときには,栃木ブレックス田臥選手を扱い,実際にビデオレターなどもいただいた授業でしたが,コストパフォーマンスのことは指摘を受けました。

 

 Tさんならでは,の授業になっていませんか? みんなにできますよ,と言えますか?と。

 太田先生には,題材へのこだわりはTさんのよさだよ。とも言われましたが,今改めて考えると,子どもたちの生,を生かして,に意味を見いだせるようになったと思っています。

 こうしたことを考えると,こんな活動はいいですよ,と技術を切り売りするような研修には疑念を感じます。

 研究主任をし,マクロに考えたからこそ,そうしたことに気付けたと思っています。

私もまだまだまだまだ・・・ですが・・・

 

 

 私の課題は,language focusをどうしていくか,ということです。
語学の授業であるわけで,大きな流れを切らずに,でも,子どもたちに語彙や文法を印象づける活動を,いかに行動主義的,ドリル的だと嫌にさせないように配慮しつつしていくか,をもっともっと研究・実践していきたいです。

 あまりにも自然に流してしまっていて,子どもたちの能力におんぶにだっこになっているように感じます。自分がすごいのではなく,彼らがすごいから,させてもらっている感じすらしています。

 朝の会のように・・・はすばらしいですが,focusすべきときにする,ことも忘れずにいきたいです。