ことばを教える,ということの重みを考える
35歳で自分の教師としての在り方に疑問を感じるようになり,子どもたちを大切にしなければ・・・そして,授業を変えなければ・・・と思うようになりました。
40歳を過ぎて,自分があまりにも世の中のことを知らないことに(ばかですねえ)気付き,本を読むようになりました。
それでも,自分の身の回りのことすら未だ分からないことばかりです・・・
刺激的なタイトルを見て手にし,シルバーウィークにと思い,昨日読了しました。
教育現場で仕事をし,子どもたちの姿をずっと見てきて,また,子どもたちを通して,保護者の方や,世の中を見てきました。
本書が指摘する通り,子どもたちが,そして保護者の方(=市民)の中で格差を感じる場面が多くなっているという体感があります。
ふだん,いたるところで耳にし,目にする「グローバル化」「ボーダレス化」ということばは,学校現場に届く文書にも溢れています。
一見,見栄えがし,聞こえがよいことばではありますが,実際のところはどうなんだろう・・・criticalな見方で考えてみる必要があると思います。
新自由主義をもとにした国家運営が続き,考えてみれば,様々な施策は,財界からの強い要請に基づいて行われている・・・
一般市民の声はそこには届いていない・・・
そう強く感じることが本当に多くなってきました。
限られた経済資源をグローバル化に対応した成長のために充てる,となれば,福祉や教育に廻す資金が減らされることにもつながります。
学校で,充実した教育を行うための人的資源の確保,多忙化の解消・・・ 夢のまた夢のような気がします。
本書は,そうしたバックグラウンドの上に,これまであまり焦点を当てられることの少なかった「言語政策」について掘り下げて述べています。
生活のために必要なことばは,「土着語」であり,日常生活に必要な語彙までしかカバーしていない。かつての日本語がそうだった。
明治時代にも,高次の学問を修めるための高等教育は,英語で行われ,教師も外国人だった。なぜなら,哲学的なことば,抽象的なことばは日本語には存在せず,日本人もそれを理解・表現できなかったからだ。
日本語で書かれた書物で学ぶよりも,何倍も,何十倍もの時間と労力をかけて,英語の書物を通して学ぶこととなり,それだけかけて学んでも,nativeの理解には及ばないことがほとんどとなってしまう。
これまでに何度も英語公用語化の議論が起こってきたが,英語を公用語とすることは,全くプラスにはならない。なぜなら,日本人の多くがどれだけ真剣に英語を学んだとしても,nativeのレベルには遠く及ばず,共通の土俵でぶつかっても,到底有利な立場に置かれることはない。
英語を公用語とすることで,日本語が衰退してしまうとともに,日本人が深く思考をするための道具を失うことにもなっていく。
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ヨーロッパの歴史でも,ラテン語という共通語を使っていた時代は,多くの特権が一部のエリートにのみ握られていた。一番の拠り所とされていた聖書も,ラテン語のものが正統とされ,翻訳がなされていたかったが,宗教改革でルターらがドイツ語やフランス語などで聖書を分かりやすく翻訳し(命を賭して),それをきっかけとして,母国語での出版,研究が増えて,市民が賢明となる機会を得ていった。
その流れは,「グローバル化」とは逆の流れで,それぞれの民族が,それぞれの固有のよさを大切にし,互いに認め合うベクトルへ,という「土着化」から生まれたのではないか,としている。
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新自由主義が目指すのは,個別の言語,信条,生き方など,効率化のさまたげとなることを排し,スムーズな政策実行(そのための民主的な話し合いのプロセスもカット)と経済効率のアップである。
そのため,「土着化」を捨て,どこもかしこも,だれしもが「グローバル化」「ボーダレス化」の名のもとに一つの輪の中に入ることを目指すのである。
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経済の効率化のため,利益を上げるため,どんどんと投資をし,海外へ打って出る,そのために国内や市民(従業員)のために使う資金はできるだけカットする。昇給もなければ,福祉の充実もしない・・・。
また,海外での仕事に生かす,また,続々と流入する海外からの人たちとの仕事にも生かすために英語学習を強いることとなり,そのため,市民は,何を学ぶか,という選択権ももたないまま,英語を学ばなければならない状況に置かれてしまう。
さらには,経済的,物理的に余裕があり,英語をしっかり学べるエリート階層と,その逆に,英語を学ぶ環境にない階層との間に,職業選択の面などで大きなギャップが生まれ,国のバランスが失われるとともに,市民の幸福が削られていく。
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英語を重視する,ということは,市民が深い思考を日本語で行うことの機会を減らすことにもなり,市民が衰退していく。
こんなことが書かれていたと思います。
●ことばを学ぶことは,単に道具を身に付けることではない
●ことばを学ぶことは,一人の人間のアイデンティティに深く関わる
●深く考えるためには,母国語がかかせない
これには一理あるな,と思いました。
その国の言語政策について広く調べ,研究したことを述べた本として:
相互文化的能力を育む外国語教育: グローバル時代の市民性形成をめざして
- 作者: マイケルバイラム,細川英雄,Michael Byram,山田悦子,古村由美子
- 出版社/メーカー: 大修館書店
- 発売日: 2015/07/28
- メディア: 単行本
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先日,紹介させてもらいました。
ヨーロッパでは,自国民のアイデンティティの大切さを重視しつつ,他の国の人々と共生していくために必要な言語を学んでいく,というスタンスを,国の教育政策・言語政策の中で明らかにしながら取り組んでいます。
一方,日本では,国・文科省の方針の中には,グローバル化(経済的なニーズ)のために英語が必要だ,と謳われてはいても,アイデンティティ云々の言及はほぼ見られない,と言っています。
本書では,英語を学ぶことそのものを否定してはいません。また,英語を学ぶことのメリットや必要性についても認めています。
一方で,上述のような現在の英語化一辺倒の流れへの危機感を述べています。
著者の主張の中には,ちゃんとしたエビデンスがあるのかな・・・???
と思われるところや,
学校で行われている英語教育の実態を踏まえていないのでは・・・???
と思われるところもあります。
小学校低学年から英語に触れる,それも短時間で,母語に影響は及ばない,という研究成果もあるのです・・・
ただ,ことばを子どもたちに学ばせる,ということには,思ってきた以上の,重大な意味・意義があるのだ,ということだけは,少なくとも再認識させられました。
個々のアイデンティティを大切にしつつ,共生のためにつながるような・・・
そんな学びに,少しでも近づけたいです。