新時代に即応した授業改革はできているか?

f:id:takaenglishteacher:20150106170353j:plain 新年,年頭に思う

 

日本教育新聞の今年の最初の号が配達されてきました。

 

1面の社説を読んで・・・

 

自分たちがこれまでの経験則だけに留まらず,今,求められている教育の在り方に即した授業をしているか,また,しようとしているか,授業改善をしているのか,と自分自身に問いかけています。

 

社説の中には,執筆者がある学校を訪ねると,教室から廊下に届いてくるのは,教師の声だけだった,と書かれています。

 

子どもたちの学びを中心に授業を組み立てるような・・・

 

もちろん,荒れた学校のこともあるとは思います。

 

自分もそうした学校での勤務経験が複数校,複数年あります。

 

でも,だからと言って,子どもたちの可能性,成長の芽を,

 

「ここはそういう学校じゃないから」

 

というような,教師側の勝手な主観で摘んで良いはずがありません。

 

 

今読んでいる本の中でも,生徒に求める資質や能力を,まず私たち教師自身が身に付けているか,いや,身に付けようとしているかどうか,が問われていると思います。

 

 

神奈川大学の久保野先生が,自分に言ってくれたこと:

 

「いやー,Tさん,40過ぎても,こんなに変われるんだね。 成長できるんだね。」

 

このことばを,

 

「これまで何をしていたんだよ!」

 

と恥ずかしく考えるのではなく,

 

「今からでも変われるんだ。少し,変わり始めたんだ!」

 

と嬉しく捉えています。

 

英語の授業に関して言えば:

 

How do our students learn in class?

 

How are languages(is English) learned?

 

という問いへの答えを,自分たちが明確に意識して取り組まなければいけない,と思っています。

 

 

変わろうとしない,変われないひと,もの,こと,を嘆いてもしかたがない・・・

 

まずは自分からTake actionできるようになりたいです。

 

そんな2015年になるといいなあ・・・

 

 

大学入試等の改革が叫ばれています。

 

4技能を問う入試の実現を喜ぶ声もあれば,それが利権に絡んでいると批判をする声もあります。

 

両サイドの考えに正当性があり,解を単純に見出すことはできません。

 

大学,いや,高校についても,入試学力を中心とした成果で子どもたちを格付けしてしまうこと自体が,どうなのでしょうか。

 

いわゆる「よい」,「高い」学校に入れずに終わった子どもたちは,その失望感をどう処理していったらいいのでしょう。

 

「勝ち組」だけを育てるのは無理で,「負けてしまった者たち」をいったいどうするのでしょうか。

 

フィンランド等,高校や大学の格をレベルで付けるのではなく,さまざまな人たちがお互いに学び合い,高め合う環境づくり・・・

 

そして,どの子も,学びの充実感を感じ,グループや地域を支える存在となりうるような環境へ・・・

 

そう考えると,本当の意味での入試改革は,その選抜方法を変えればよい,ということでは収まらないのではないか・・・

 

そんなことすら感じます。

 

確か,日本と同じようなシステムのドイツの例では,やはり「良い」高校に行けなかった生徒が路上に出るなどして,荒れていっているそうです。

 

 

大学,高校の在り方自体の問題か・・・

 

 

ただ,そんなことを言っても,大海の中の一滴にもならないかもしれません・・・

 

今自分ができることを,ただ一所懸命に・・・

 

 

今年も,そこはストイックに行っていこうと思います!

 

 

ガンバ! 自分!